わらぶき屋根の家

滋賀県生まれ、町工場を営む祖父と父を中心に7人家族、3姉妹の長女として育った。
家は「わらぶき屋根」だった。安土桃山時代までは「瀬田城」という城が隣にあったそうだ。
「琵琶湖」の湖畔、「瀬田の唐橋」「石山寺」の名所や田園風景の広がる、のんびりした街だった。
近所のたくさんの子どもたちと日暮れまで遊んだ。
美人ではないけど愛嬌のある子で、皆から「君ちゃん」「君ちゃん」と可愛がってもらったと祖母に聞いた。
家には母の「足ふみオルガン」があった。
母は小さい時からピアノを習っていたが、戦争で叶わなくなり、子供にはピアノを弾かせたいと願ったそうだ。
幼稚園年中の時、幼稚園のピアノ教室で習い始めた。
生徒さん達が絵本・マンガなど読みながら順番を待っていた中に混じって、色々なピアノ曲を聴いて楽しく過ごした。
お姉さんたちが弾く「バイエル」が大好きだった!
全部の曲を宙で覚えていて、特に伴奏付きの曲が始まると嬉しくてたまらなかった。
大好きなバイエルは楽しく順調に進んだようだが、読譜の能力が付いていないことを自分で「発見・自覚」したのは、たぶん、ずーっと後の中学生の頃だったと思う。

滋賀にあった君枝の実家
3姉妹の長女として育った。一番左が君枝。

小学生

なぜか学校ではなかなか自己主張できず、通知表にはいつも「おとなしい」と書かれた。
小学校1年生の時、わが家にピアノがやって来た。「ピアノなんて贅沢だ!」と反対する祖父を母が説得したそうだ。母もソナチネなどをよく弾いていた。
音楽では自分を発揮できた。
2人の妹たちに風呂敷のドレスを着せて、レコードをかけて、家族を茶の間に座らせて、幕(ドア)を開け、ミュージカルのまねごとをして遊んだりした。
4年生の時、学校で「音楽クラブ」に入ってソプラノアコーディオン担当になった。
先生が編曲したものを皆で楽しく演奏した。
「ハンガリアン舞曲5番」「双頭の鷲の旗の下に」などのオーケストラの曲は、この時にたくさん演奏して親しんだ。
ピアノ教室にはずっと通い、渡辺令子先生が講師として来られるようになった。

練習しなさいとは言われなかった

小学生の頃、母に「練習しなさい」と言われた記憶はまったく無い。
「練習した」というよりは、ピアノを楽しく弾いた。
5年生の時のピアノ発表会でハイドンのソナタを弾いた。
その頃ピアノ教室で高校生のお姉さんの「バッハ・インヴェンション」を聴き、その特別な音楽に衝撃を受け、魅了された。
母に話すとすぐ先生の耳に伝わり、バッハ・インヴェンションを練習することになった。
あの時のバッハに感じた衝撃はとても深く心に残ったが、今ではその気持ちはすっかり忘れてしまった。
「となりのトトロ」のように、きっと子どもにしか見えないものがあるのだと思う。
小さい生徒さんの小さな感動をキャッチできて大きく伸ばせる、そんな感性の豊かな大人であり続けたいと思う。

1965頃のピアノ発表会
電車にて

部活とピアノの両立

中学生。
ピアノを職業にするつもりはみじんもなく、部活は「バレーボール部」に入った。
毎週、部活が終わってからピアノ教室に通った。
汗臭くて、手はしびれていた。
先生はそんな私の全てを認めて「良く来たね!」と迎え、大切に育んでくださったので、今までピアノを続けられたと思う。

全人格を認められて

当時のピアノの先生といえば、
「ピアノをやるなら、他の事は一切やめなさい」
「手に悪いから、指に悪いから、あれこれを止めなさい 」
といった制限を設けることも多かったが、私の受けた渡辺先生は全く違って 、全てを認めてくださった 。
他人と比べず、ひとりひとりの個性を大切にしてくださった。
この先生がおられたからこそ、私はピアノをずっと続けられたし、今こうしてピアノの教師になっていると思う。
私のピアノ教師のモデルはこの先生だったのだと思う 。

高校受験

高校の進路を決める時期になった。
県立高校の音楽科の話を聞き、興味を持った。
両親や先生と相談し、音楽科を受けることに決心、初めて音楽の専門的な勉強を開始した。大好きな音楽を勉強することになって、嬉しくて、ワクワクしながら熱心に取り組んだ。
おかげさまで合格!

受験秘話

ずっと後に渡辺先生と話す機会があり、『君ちゃんはいつも良く練習する子だったねー!』としみじみ言われ、びっくり仰天してひっくり返りそうになった。
じつは耳コピーしてすぐに覚えてしまうタイプ(相対音感)だったので、先生が「良く練習している」とずっと勘違いされていたようだ。
前の生徒さんの弾いているベートーヴェンのソナタを聴いて「この曲弾きたい!」と先生に言い、母に楽譜を買ってもらい、次の週には弾くことが出来た。
ところが聴いたことのない新しい曲の譜読みはとても苦手で、知っていて気に入っている曲でないと弾く気にならなかった。
後にピアノを教えるようになってから、不思議と耳コピータイプの生徒さんとたくさんご縁があるが、自分の経験が大きく役立っている。
耳の良いお子さんの能力は育てつつ、同時に読譜力の強化につとめるようにしている。
家では三姉妹で歌をよく歌った。
誰かが流行りの歌などを歌うと、下や上のパートをハモったりして遊んだ。
歌のハモり遊びが良い練習になっていたためか、聴音やソルフェージュはかなり得意なほうだ。

音楽高校

県立高校音楽科へ進学。
なかなか個性豊かな先輩と同級生が在籍、東京芸大作曲科に進んだ人もいたり、調律師を志した人もいた。
私は音楽科 3 期生として新しいことを楽しく吸収した。
ピアノ・音楽科目のほか、声楽・チェロを学んだ。
あれからチェロは弾く機会がないが、歌は今でも大好きだ。
伴奏もたくさん依頼されて貴重な経験をした。
ピアノの角谷先生は音大に生徒さんを多く導いておられる方で、基礎的なテクニックから練習の仕方まで、ダメ出ししながら厳しく指導して下さったため、練習の習慣があまり付いていなかった私が「きちんと練習する」ようになった。
毎日最低2時間はピアノを弾いた。

練習の成果

1 年の後期のピアノ実技試験で急に順位がクラスで 1 位になった。
有名な先生の特別レッスンを無料で受ける機会にも恵まれた。
私は少しずつ自分に自信を持つようになった。
高2からは、大学の向井滋子先生に毎月 レッスンを受けた。
先生はのんびりと構えていた私に、一つのことをを身につける心構えと厳しさを教えてくださった。
一度などは、日ごろから楽譜を正確に読んで弾くように指導されていたにもかかわらず「指づかい」や「音」がいくつも間違っていたことをひどく叱られて、とうとうクビを言い渡された。
母がお願いしに行ってくれて、またレッスンして頂けるようになった。
ピアノが弾けるようになるには「楽しい」だけではなく、毎日の練習の積み重ねが必要だ。辛いことも多かった。
この時期に厳しいレッスンを経験できたことで、生来のんびり屋でナマケモノの私がここまでピアノを続けることができて、とても感謝している。

ピアノは毎日3時間以上練習をした。
音大のピアノ科に合格。
聴音は満点だったと聞いた。

サボり癖がでた!

やっと合格した音大に、実家から通った。
入学式の時、パイプオルガンの伴奏で先輩たちの歌う校歌を聴き、感動して涙が出た。
ところが毎日ピアノに向かう音大生の日々が始まると、次第に練習をおろそかにするようになった。
音楽が好きで音大に進学したものの、私はこの時期、目的や目標を見失ってしまった。
とうとう両親に初めて「ピアノをもっと練習しなさい!」「そんなに練習しないなら大学をやめさせる!」と言わせるほどのヒドい音大生となった。
両親や先生に申し訳なかったと、あとからずいぶん反省した。

レッスンスタート

まもなく友人に頼まれて幼稚園の子どもさんの出張レッスンをするようになった。
その団地で次々とレッスンを頼まれた。
気が付くと、レッスンをしながらの充実した大学生活となっていた。
生徒さんたちに、夢中で音楽の楽しさや素晴らしさを伝えた。
また、楽器店で教えた高校生の男の子は、私の姿を見て「趣味と実益を兼ねていて、スゴイ仕事だ!」と思ったそうで、音大に行きたいと言い出した。
努力の結果、音大に合格、卒業して学校の教師となった。
ピアノを教えることで他人の役に立つことができ、感謝された喜びはとても大きかったが、実は、未熟な私自身が生徒さんからたくさんのことを教わり、学び、育ててもらったと思う。
私は、ずっとこの仕事をしたいと思った。

卒業してピアノ教師となった。
コンサート活動も行った。
だんだんと自分らしさが発揮できるようになっていった。

結婚

25 歳の時、私立高校の英語教諭の夫と結婚して、横浜に住むようになった。
夫は音楽が好きで、男性カルテットやギターを趣味とした。
まもなく長女を授かった。
子供たちを私立の高校や大学に通わせ、家も新築したため、だんだん経済的に苦しくなった。
私は 3 人の子育てをしながらピアノを教えて家計の足しにした。

子育て

夫婦での子育ての考えには最初は温度差があったが、歩み寄り、子供たちは伸びやかに自分の道を歩んでくれた。
公立育ちの2人の考えで、小学校は地元の公立で伸び伸び育てた。
長女はピアノ教室に通い、中学から私立の音楽科へ進んだ。
途中で進路変更するも、高3の時に音大進学を自分で決め、努力の結果合格。
中学から大学まで、素晴らしい恩師や仲間とめぐり逢った。
次女もピアノ教室に通い、中学はブラスバンドに熱中、高校では合唱の伴奏を引き受けた。エジプトの研究に目覚め、希望する大学に進んだ。
音楽はアマチュアとして、その後もずっと楽しんでいる。
マイペースタイプの息子は、母の教えるピアノは続かなくなり、ギター教室に通った。
中1の合唱コンクールの伴奏を自ら引き受け、私に「口答えしないから、特訓してほしい」と頼み、なんと、学年の最優秀伴奏者賞をとった。
美術をやりたいと言い出し、美大に進学した。

子育てで思うこと

3人の子育てを通じて思うことは、子育ては親が進路を決めるものじゃないし、まったく親の思い通りになどならない。
子供の人生は子供のもの。親のレールに乗せられて子供が育ったら、そのうち子ども自身が迷ったり悩んだりすると思う。
小さいうちから子供を信じて自分で決めさせる、そんな子育てをしていけたら良いと思う。
親はどういう役割をすれば良いか・・・?
動機付けをする。
子供が何をやりたいか観察する。
子供のやりたい事の実現方法をいっしょに考える。
親はそういった子供のサポート係に徹するのが良いと私は思う。

地域活動

くじ引きで PTA 校外委員長になってしまったことがきっかけで、先生や地域の素敵な方といっぱい知り合った。
PTAコーラスの伴奏も引き受けた。
友人や音楽仲間に恵まれ、ソロや伴奏でコンサート活動も開始した。
また、自宅レッスン室でピアノ教室主催の「ホームコンサート」をシリーズで開催した。

ピアノが弾きたくて

子育てをしながらの限られた自分の時間には、ピアノが弾きたくてたまらなかった。
私の子どもたちは「ピアノを練習しなさい」と言われるよりは、母のピアノ練習をさんざん聴かされて育った。
コンサートに来ると『お母さん、今日は音を◯個まちがえたね!』と報告してくれた(苦笑)

介護とピアノ教室

48 歳の時、実家の父が急逝した。
その後、母がわが家に近いマンションへ引っ越して来てくれた。
介護が始まる 。
歌の好きな母のために、妹といっしょに、高齢者向けの歌の会「ハミングの会」を企画。50名の会場がいつも満席になった。4年間続けた。
55 歳の時、母との同居がスタートした。
介護中も、10人ほどのピアノの生徒さんのレッスンをした。
音楽が大好きだった母は、娘や孫たちに囲まれて、ショパンを聴きながら旅立った。

夫の退職と子ども達の自立

夫が退職。
ずっと仕事のストレスを抱えながら家庭を支えて頑張っていてくれたのだということを、あることをきっかけに知り、夫に心から感謝した。
3人の子供たちは順に自立し、「ピアノ教師」「旅行会社社員」「広告代理店社員」となる。
自分自身を磨きたいと思い、青柳いづみこ先生の「フランス音楽講座」を受け始めた。

「ピアノのおばあちゃん」と「仏の市原」

長女、次女が結婚した。
60 歳の時、初孫誕生、65 歳で孫 4 人となった。
孫達からは「ピアノのおばぁちゃん」や「ばぁば」と呼ばれている 。
40代から仏教の教会でパイプオルガンを弾き、パイプオルガンコンサート出演や、聖歌隊の指導に力を入れるようになっていた。
夫も聖歌隊に参加して活躍し、さらに他の3つのアマチュア合唱団でも歌ううちに、次第にストレスで苦しまなくなった。
夫は合唱団のお世話係を引き受けては喜ばれ、今では「仏の市原」と呼ばれる(笑)

リトミックの勉強スタート

61歳の時「リトミック研究センター」の月例研修受講を開始「上級」資格を取得。
子育て中の娘 2 人も受講を開始。
私は「若いですね!」「上手ですね!」と若いお仲間にほめられて資格試験の練習を張り切りすぎ、生まれて初めてヒザを痛める。
しばらくして完治。
それ以来、少しは身体に気を付けるようになった。

孫育て 、生徒育て

自分の子供達の子育てを見て思うことは多々あるが、一切口は出さない。
孫達の親である夫婦それぞれで話し合って子育てをしているので、楽しみに見守っている。
ただ、今の若い親御さんは、なかなか子育ての相談をする場所がないのかもしれない。
子育て歴の長い、また3人の子育てをした私だからこそ、そうした若い親御さんたちの力になれたら!
そんな思いでピアノ教室を経営している